01を読めばわかるように、私の心のソフトはサ・ガである。で、同じスクウェア作品でありながら 「FF」について一言も触れていないことに疑問を覚える方もいるかもしれない。 ズバリ、やっていないのだ。 ゲームに頻繁に触れるようになってしばらくは、「そのうちやってみよう」と思っていたわけなのだが、失敗(単に私の躰に合っていなかっただけのこと)を重ねるうちに、さすがに私でも学習したのだ。 「一本道は私には合っていない」 偉大な作品だと思うのだ。最高級に美しいムービー、練りに練られたストーリー展開、ミニゲーム満載でチョコボはかわいかろう。そして万人がクリアーできる親切設計。 PSが浸透するためにFFは欠くべからざる存在だった。多くのライトユーザーのために、と云い変えてもいい。 これまで多くのファンを引っ張ってきた大作ソフトゆえに、「買うんじゃなかった」という声はほとんど聞かない(皆無ではないが)。私がそんな偉大な作品をプレイしないでいるのは、その「親切さ」が歯痒いから、だった。 「映画みたい」 という感想を、度々耳にする。FFをプレイした人の感想である。 「映画みたい」 それは、果たしてゲームに対しての賛辞なのだろうか。映画「的」であることに感動するならば、 始めから映画を見に行けばよいのだ。クリエイターの方にしても、「映画的」であることに感動して欲しいのなら始めから全編CGで「映画」をつくっているのだ(そういえばFFの映画もそのうち公開されるね)。そうすればもう一歩突っ込んだ観点で感動できるだろう。 それを、なぜ敢えてゲームという手法を使うか。 インタラクティブであることに意味があるからだ。自分で考えるからこそロールプレイング(役を演じる)なのだ。 主人公(自分)はレベル上げをするためだけのロボットではない。はずなのに。 「FFおもしろいよ。映画見てるみたい」 その科白を聞く度に、なんだか溜息がでてしまう。と同時にFFをプレイすることまでもが鬱陶しいことのように思えてしまうのだ。 自分でプレイしてみたらきっと考え方は変わるだろうと、わかってはいるんだけどねぇ・・・。 もう一度FFに敬意を表しつつ 終わる。
突出しているがゆえに・了 02/1999